N A T U R A L F R O N T : Culture : ching-dong : soul flower mononoke summit : CD
soul flower mononoke summit
/asyl ching-dong
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関東大震災(1923年9月1日)直後に、演歌師の仲間から依頼されて添田さつき(唖蝉坊の息子)が作った。「近くへ演歌に出てみたときのことだ。日暮里の焼亡をのがれた地区とはいえ、夜は暗く死んだように沈みかえっている。そんな中で歌声をあげたりしたら、袋だたきにあうのではないか、そんな不安があった。とある横丁でうたいはじめると、たちまち、暗い家々からとび出してきた人々に囲まれた。しかしそれは、不安とは逆に、熱心に聞き入る人々であった」(添田さつき『演歌の明治・大正史』より)。『復興節』 の唄本は飛ぶように売れ、印刷が追いつかない程であったらしい。「悲しい時でも、うれしい時でも。苦しい時でも、辛い時でも。人は歌う。それぞれがおかれた状態のちがいはあっても、それはそれなりに、うたわずにはいられないものが、人間にある。状態下のそのままを吐き出すこともあれば、逆の表現をとることもある。そしてこれは、歌唱表現の上手下手とは関わりのないことで、またさらに表現力をもたない者、極端にいえば唖でさえ、心の底ではうたっているのだ、という感得をしたことは、まったく何よりの私の収穫だった」(添田さつき『演歌師の生活』より。)
メロディは中国俗曲『沙窓』を転用したもので、当時の録音として鳥取春陽・斎藤一聲の二人によるものが『街角のうた〜書生節の世界』(大道楽レコード)で聴ける。
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作詞者武島羽衣は、古語や雅楽にたよって形式をととのえる美文調韻文詩の創始者・落合直文( [孝女白菊の歌』や [青葉茂れる桜井の』が有名)の系統をひく人。
この曲は佐世保の女学校が新設された時に作られたものだが、作曲者の田中穂積が佐世保海兵団軍楽隊長であることから軍楽隊内で愛唱され、東京に伝えられた。当時は軍楽隊こそがなによりも日本に於ける西洋音楽の普及に貢献した訳で、この曲は日本人の手による最初のワルツの代表曲。活動写真や曲馬団等の興行物の客寄せ音楽には決まって使われ、いわゆる“ジンタ”の代名詞ともなった。
また、演歌師達によってうたわれた八雲山人作詞の『夜半の追憶』(凄絶な社会的事件を元に書かれた [美しき天然』の替え唄。“ああ世は夢か幻か、獄舎にひとり思い寝の、夢より覚めて見廻せば、四辺静かに夜は更けて)でも有名。
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1880年代の自由民権運動が藩閥政権による政府の言論弾圧によって手も足も出せなくなった頃、運動に携わる壮士達は演説のかわりに歌をもってすることを考え、それを“演歌”と称した。しかしながら、絶えざる圧迫により多くの演歌師はうたうことを辞し、添田唖蝉坊ら、二、三の者によってその命脈は保たれていた。1905年、日露戦争の真っ只中、物売りのベテランのおばさん(桜井かく)に、「どうも演歌の文句は堅苦しくていけないよ。先生、もっとくだけたものを作ってくださいよ」と訴願された唖蝉坊が、それも一理あると苦笑しつつ作ったのが『ラッパ節』である。壮士演歌の旋律の乏しさ、悲憤悴概調の画一さから脱却した革新性が大いにうけ、同曲の流行は「明治」の終わり迄続いた。“トコットット…”は鉄道馬車のラッパのオノマトペ(擬音語)。
メロデイーはルルー作『抜刀隊の歌』(1885年)、『ノルマントン号沈没の歌』(1887年)が転化したものと思われる。
沖縄版『ラッパ節』を大工哲弘の『ウチナー・ジンタ』(1994年)で聴くことができる。
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日本最初の革命歌は『敵は幾万』のふしでうたわれた高浜長記作詞『富の鎖』(1905年)、そして一高寮歌『鳴呼玉杯に花うけて』のふしでうたわれた築比地仲助作詞『ああ革命は近づけり』(1908年)があった。
それから十数年後の1920年5月2日、普選運動の高まりを背景に日本最初のメーデーが上野公園で開かれた。その準備会で、一高寮歌『アムール河の流血や』のふしが選ばれて、当時池貝鉄工の労働者で社会運動家の大場勇が作詞したのが『聞け万国の労働者』。当時、労働運動に関心を持つ音楽家、作曲家は皆無の状態であったため新曲が作られる訳もなく、また、民衆が一定の教育や練習をつまなくてもすぐうたえるように、との配慮もあって既存の軍歌や寮歌に頼らざるを得ない事情があった訳だ。
その後、『水平社の歌』(1922年)を経て、労働運動の発展と共に『インターナショナル』や『赤旗の歌』が輸入されるようになった。
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「大正」年間、デモクラシー思潮の高まりにつれ社会主義が活気を取り戻し、労働運動が盛んになっていった。そんな中、大阪の演歌師の元締めの一人であった倉持愚禅が丹波篠山の民謡『デカンショ節』のふしに乗せうたい広めたのが『デモクラシー節』だ。1919年に爆発的におこった普選運動に刺激を受けた演歌師達は、各々その思想を歌に込め表現した。『チャクライ節』のふしに乗せてうたわれた唖蝉坊作詞の『デモクラシー節』は同名異曲。
危険思想の持ち主と特高からマークされ、常に尾行が付いていた演歌師秋山楓谷が妻静代とのコンビで吹き込んでいる。現在『街角のうた〜書生節の世界』(大道楽レコード)で聴くことが出来る。
〜デカンショ節 DEKANSYO-BUSHI
兵庫県多紀郡篠山町の人たちが盆踊り唄としてうたってきたのがこの『デカンショ節』。源流は河内地方の『河内音頭』や九州の『ハイヤ節』などと同系の盆踊り口説節である。
1907年頃、青山藩主青山忠誠が開設した鳳鳴塾の出身者が多数東京へ出て、学生仲間の間ではやり唄的存在となっていった。また、「大正」年間には三味線の手がつけられ花柳界でも大ヒットした。“デカンショ”をデカルト・カント・ショーペンハウエルの略とする説は旧制高校の学生のこじつけで、“ドッコイショ”が訛ったものである。
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鳥取県気高郡の漁師が帆立貝漁をするおり、ジョレン(漁具)で海底の帆立貝を掻き集める時に舟を漕ぎながらうたってきた仕事唄(「江戸」末期から「明治」年間にかけて、潮流の加減でおびただしく帆立貝が繁殖した年があり、これを地元では「カイガラ年」と呼んだそうだ。とりすぎて港へ戻る前に舟が沈んでしまったという話もある)。波の音に消されない声量と、重い艪を力を込めて漕ぐゆったりとしたテンポでうたわれる。
日本各地の海や川の仕事唄には“ヤサエーエンヤ”、“エンヤコラ”、“エンヤドッコ”など似たものが多く、囃子の“ヤサホーエイヤ ホーエヤエーヨサノサッサ”は遠く奄美大島に旋律共にそっくりなものがある。“貝殻節”の囃子は、鳥取市を流れる千代川の河口に開けた賀露に鎮座する賀露神社の祭礼におこなわれる「ホーエンヤ舟」の掛け声を元とする説もある。
〜アランペニ ARANPENI
アイヌ民謡は、アイヌ・モシリ(北海道)の南西部ではRIMSE (踊歌) といい、中・東・北部ではROK・UPOPO (座るウポポ) とROSKI・UPOPO (立つウポポ) に分けたり、樺太ではHECHIRI (踊歌) ともいうが、本来、祭りで踊るためのものだから、神 (カムイ) に失礼のないように正装で行なわれるものだ。地方によっては歌詞に変化があり、『アランペニ』は新冠の方で“霧が晴れますように”という意味で歌われているもの。
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1960年、千二百人の首切り通告を発端に三池闘争は無期限ストに突入した。長期戦に活を入れようと、多くのうたごえ運動家が楽曲創作に取りかかったが、なかなかいい曲が出来なかった。そんなおり、当時炭労の機関誌に詩を発表していた森田八重子に本部から声がかかった。彼女が現地で見たのは、労組員と主婦達がひとつになってデモ行進する姿だった。彼女は見たままの光景を書き上げ、うたごえ運動の仲間で三池炭鉱の労働者でもある荒木栄に曲を依頼した(荒木栄はわずか38歳で胃ガンのために死んだが、彼が十年にも満たない短期間に残した60数曲は、その後も多くの運動家、労働者に愛唱された。有名なものに、『沖縄を返せ』、『心はいつも夜明けだ』、『この勝利にひびけとどろけ』等がある)。
1960年6月5日、福岡県大牟田市の三井炭鉱のホッパー広場で一万人の労働者が『がんばろう』を初めてうたった。
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1919年、添田唖蝉坊の息子添田さつきの処女作で、当時の風俗諷刺を含んだ東京風物歌。」
「(父が) 私に作ってみないかといったのは、ちょうど自分が作りかけていたらしく、それが洋食屋のメニューみたいな詠みこみの“フライ、フライ、フライ、カレーライス、ソーダミルクにカフェ、ナフキン”などと、未完成なまま口ずさんでみせるので、小説家志望のこちらも歌は決してきらいではなかったのだから、ついつりこまれて行った。いっしょになって、そのメニューソングをまとめることをやった。出鱈目節などというものを作ってきた唖蝉坊だから、どうせ浮世は出たらめだという感があって、口ぐせにもなっていて、それがそのときも出てきたのだった。デタラメがラメとなり、ラメチャンとなり、パイがパイノパイの囃子言葉になったという次第だった」(添田さつき『演歌師の生活』)。唖蝉坊はロクな添削もせずに息子の『東京節』を演歌のビラ本に刷って演歌師達に渡したところ、たちまち大流行となった。その後、第一次大戦終結の時節柄、『平和節』なる替え歌も作り、これもたちまち大ヒットと相成った。結果、さつきも父同様、ヴァイオリン片手に街頭に立つようになり、『復興節』、『ストトン節』、『月は無情』、『思い出した』等のヒットを連発するようになるのであった。
『東京節』の原曲はアメリカ南部の『マーチング・スルー・ジョージア』。
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1971年、フォーク・グループ赤い鳥のシングル・ヒットによって一躍有名になったのがこの『竹田の子守唄』。そのアレンジメントは元唄を平坦にした、抒情的なフォーク・アレンジではあったが、メンバー自ら現地に足しげく通い、地元の古老に教えてもらったものを元にしている。
京都伏見地方の被差別部落でうたい継がれてきたもので、奉公に出された少女が赤子を守りする際にうたった、子供の仕事唄である。元唄に“盆が来たとて正月が来たて、難儀な親もちゃうれしない”や、“守がにくいとて破れ傘着せりゃ、かわい我が子に雨かかる”等の歌詞もみられる。
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【参考文献】
- ソウル・フラワー・ユニオン『NO GURU.3』の“モノノケ・サミット全曲解説〈執筆陣:岡田則夫、上島敏昭、持田明美、チュプチセコル、大工哲弘〉”
- 添田さつき『演歌師の生活』(雄山閣)
- 『新版/日本流行歌史(上・中)』(社会思想社)
- 乾孝、渋谷修『にっぽんの歌』(淡路書房)
- 『日本の詩歌』(中公文庫)
- 竹内勉『民謡手帖』(駸々堂)
- 解放出版社編『部落問題/資料と解説』(解放出版社)
- CD『街角のうた/書生節の世界』ライナー・ノーツ(大道楽レコード)
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